『涅槃』の世界
あなた様は、『ニルヴァーナ(涅槃)』という言葉をご存知でしょうか。
アメリカ合衆国のロックバンドやイギリスのプログレッシブ・ロックバンドが揃って「バンド名」として採用したこの言葉。
一般的な仏教においては、おもに『煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと』を表す概念とされ、ジャイナ教においては『魂という存在にとって至福の状態であり、業の呪縛や輪廻からの完全なる解放』を表す概念とされています。
それらは、いささか難しい概念のように思えるかもしれません。
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。
インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष mokṣa または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している。
仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。完全な涅槃を般涅槃(はつねはん)、釈迦の入滅を大般涅槃という。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる。
■原語・漢訳・同義語
原語のサンスクリット語: nirvāṇa(ニルヴァーナ、巴: nibbāna)とは「消えた」という意味である。「涅槃」はこれらの原語の音写である。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある。
梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅[要出典]などと漢訳される。また、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる。釈迦の入滅を、大いなる般涅槃、すなわち大般涅槃(だいはつねはん、巴: mahāparinirbāṇa)、あるいは大円寂という。
■仏教において
涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。
■部派仏教
部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である。
説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた。
また、説一切有部では涅槃は択滅(ちゃくめつ、梵: pratisaṃkhyānirodha、プラティサンキヤーニローダ)ともいい、五位七十五法の無為法の一つに数えられる。択滅は、正しい知恵による煩悩の止滅を意味し、苦集滅道の四諦のうち「滅」のことをさす。なお、「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。
説一切有部では、1つ1つの煩悩が断たれて、有情の相続がその煩悩の拘束から離繫する(離れる)ごとに、「択滅」という無為の法(ダルマ)が1つ1つ、その有情の相続に結びつけられ、涅槃となると考える。こうしてすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃(はつねはん)、すなわち完全な涅槃という。
■大乗仏教
大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える。
唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける。天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける。
■釈迦牟尼仏の肉体の死としての涅槃
涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に釈迦牟尼仏)の肉体の死を指すこともある。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている。
■抜粋
◇ダンマパダ
「Jighacchāparamā rogā saṅkhāraparamā dukhā
Etaṃ ñatvā yathābhūtaṃ nibbāṇaparamaṃ sukhaṃ」
飢えることは、最悪の病である。サンカーラは、最悪の苦しみである。
このことをあるがまま知る者にとって、涅槃は最高の幸福である。
—パーリ仏典, ダンマパダ,203, Sri Lanka Tripitaka Project
「Sa ce neresi attānaṃ kaṃso upahato yathā
Esa patto’si nibbāṇaṃ sārambho te na vijjati.」
まるで壊れた鐘のように、喋ることを止めて静寂に達したならば
それは涅槃に達したのである。汝に怒りの言葉はない。
—パーリ仏典, ダンマパダ, 134, Sri Lanka Tripitaka Project
南伝のパーリ語教典を訳した中村元は、ダンマパダ、第十章暴力、百三十四節の訳注[要追加記述]において、
「安らぎ – Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」
としている。
(ニルヴァーナ (ジャイナ教)から転送)
ジャイナ教における解脱(サンスクリット語: मोक्ष, Mokṣa [モークシャ]、プラークリット: मोक्ख, Mokkha [モッカ] )は、魂という存在にとって至福の状態であり、業の呪縛や輪廻からの完全なる解放である。解放された魂は無限の至福、無限の知識、無限の知覚を伴った自身の真の不垢なる本性に到達するとされる。このような状態にある魂はシッダ(siddha)あるいはパラマートマン(paramātman)と呼ばれ、魂が到達しようとするべき最高の、もっとも気高い目標地点とされる。ジャイナ教によれば、魂は、「三宝」、すなわち、1.正しい認識、2.正しい知識、3.正しい行いに基づいてこの状態に至るとされる。そのためジャイナ教には、「解脱への道」(mokṣamārga、モークシャマールガ)という呼称もある。
■概要
解脱(mokṣa)という概念は、それ自体が主体的に行動し、その結果を享受し、責任を持つ永遠の魂の存在を前提としている。そのうえで、全ての魂は世界の物質的な活動に絡めとられ、永遠に過去から業に束縛され、ある存在から別の存在へと転生・再生を繰り返しているとされる。ジャイナ教によれば、全ての魂はこの繰り返される生と死からの解放、つまり解脱に到達できるという。
■ジャイナ経典にみられる記述
◇サマン・スッタム(Samaṇ Suttaṁ)は、ニルヴァーナに関する以下の記述より成る –
・苦痛も快楽もなく、苦しみも生もなく、生まれることも死ぬこともない場所、それが解脱である。(617)
・感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢えもない場所、それが解脱である。(618)
・カルマもなく、カジカルマもなく、心配事もなく、専門的にはアルッタ、ラウドラ、ダルマ、スクラなどと呼ばれるようないかなる種類の思考もない場所、それがニルヴァーナである。(619)
◇ウッタラディヤヤナ・スートラによって、パールシュヴァの門人のケーシにガウタマが解脱の意味を説明した様子がわかる。
あらゆる観点から見て安全だが到達しがたい場所があり、そこでは年を取ることも死ぬこともなく、苦しみもなければ病気をすることもない。ニルヴァーナ、あるいは苦痛からの解放、あるいは完全性と呼ばれている場所こそがあらゆる観点から見て安全で、幸福で、静寂な場所であり、偉大な賢者たちがそこに到達できる。そこはあらゆる観点から見て永遠の場所であるが到達しがたい。そこへ到達した賢者は悲しみから解放され、存在の流れを終わらせた。(81-4)
■バーヴィヤター
しかし、解脱の達成可能性の観点から、ジャイナ経典は霊魂(jīva)をバーヴィヤ(bhāvya)とアバーヴィヤ(abhāvya)の二つのカテゴリに分ける。バーヴィヤである霊魂とは解脱を信じており、そのため解脱へいたろうと努力している霊魂のことである。この可能性あるいは性質はバーヴィヤター(bhāvyatā)と呼ばれている。しかしながら、バーヴィヤター自体は解脱を保証するものではない、というのも魂は解脱するためには必要な努力を尽くす必要があるからである。一方アバーヴィヤである魂とは、解脱を信じておらず解脱に至ろうと努力することがないために、解脱へ至ることができない魂のことである。
■個別性の概念
ジャイナ教は解脱の後にも個別性の概念が存続することを支持する。解脱に至った魂もまだ解脱に至っていない魂も無数に存在する。解脱に至ったのちにも魂は互いに区別できる個別性を保つ。そのため、永遠・無限の至福の中にシッダ(成就者)が無数に存在する。
■シッダシーラ
ジャイナ宇宙論によれば、シッダシーラ(siddhaśīla)とは、シッダ(siddha、成就者)が居住する場所である。シッダシーラは宇宙の頂に存する。
■人間として生まれること
解脱は人間としての生においてのみ到達できる。神々や天上の存在であっても人間同様に転生し、解脱するためには正しい認識、正しい知識、正しい行為に従う必要がある。ジャイナ教によれば、人間として生まれることは非常に得がたい、貴重なことであり、そのため人間は賢い選択をするべきだという。
■解脱への道標
魂は永遠の過去から業(カルマ)に束縛されている。解脱へいたる第一のステップはサムヤクトヴァ(samyaktva、正しいこと)、つまり正しい認識、正しい知識、正しい行為の三つを教え込むことである。
■サムヤクトヴァ
ジャイナ教によれば、まとめて「三宝」(ratnatraya、ラトナトラヤ)としても知られている正しい認識(samyak darśana)、正しい知識(samyak jñāna)、正しい行為(samyak caritra)が真のダルマを構成している。ウマースヴァーティーによれば、この三つが解脱への道を構成する[4]。
正しい認識(samyak darśana)は宇宙の全ての実体の真の本性に関する正しい確信である。
正しい知識(samyak jñāna)は、真理(tattva、タットヴァ)に関する知識を正しく知っていることである。これは多元論(アネーカーンタヴァーダ)と相対論(スィヤードヴァーダ)との二つの原理と一体となる。正しい知識は三つの瑕疵、つまり疑い、欺き、不確定性から免れていなければならない。
正しい行為(samyak caritra)は生きている存在(魂)の本来の行為である。これは正しい行為、五大誓戒(mahāvrata)の順守、五官について気をつけることや、自己制御を厳粛に行うことに存する。 一たび魂がサムヤクトヴァ(samyaktva)を獲得すると、解脱が短い期間で得られることが保証される。
■完全智(ケーヴァラ・ジュニャーナ)
完全智(kevala jñāna)、つまり正見(samyak dṛṣṭi)を獲得した魂が到達できる超越的な知識の最高の形式、は「究極的な知識」、「悟り」とも呼ばれる。完全智(ケーヴァラ)とは、業(カルマ)の残余を焼き払い、生と死の繰り返しから解放する禁欲的な実践を通じて獲得される、アジーヴァ(ajīva、非霊魂)からジーヴァ(jīva、霊魂)が解放された状態のことである。そのため完全智とはガーティヤー・カルマを完全に消滅させた後の魂によって得られる、自己あるいは非自己に関する無限の知識を意味する。そういった完全智を獲得した人間はケーヴァリン(kevalin)と呼ばれる。ケーヴァリンは勝者(jina、ジナ)あるいは阿羅漢(arhat、アルハット)としても知られ、ジャイナ教徒によって最高の存在としてあがめられる。この段階に至った魂はアガーティヤー・カルマを消し去ったのち、生涯の最後に解脱に至る。
■涅槃(ニルヴァーナ)
ニルヴァーナもしくはニッヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण, Nirvāṇa; プラークリット: णिव्वाण Nivvāṇa、涅槃)は、ジャイナ教においてはカルマの呪縛からの最終的な開放を意味する。アリハントやティールタンカラのような悟りを開いた人は自身に残っているアガーティヤー・カルマを消滅させて自身のこの世界における存在を消滅させる。これがニルヴァーナ(nirvāṇa)である。用語として厳密には、アリハントの死がアリハントのニルヴァーナと呼ばれる、というのは死ぬことで世界における存在を終わらせて解脱するからである。モークシャ、すなわち解脱はニルヴァーナに引き続いて起きる。アリハントはニルヴァーナに至ったのちにシッダ、つまり解脱した者になる。しかし、ニルヴァーナという用語はしばしばモークシャの同義語としても使われる。カルパスートラではマハーヴィーラのニルヴァーナが入念に説明されている。
■モークシャとしてのニルヴァーナ
「モークシャ」と「ニルヴァーナ」という用語はジャイナ経典においてしばしば同じ意味で使われる。ウッタラディヤヤナ・スートラではパールシュヴァの弟子のケーシにニルヴァーナの意味を説明するガウタマについて書かれている。
そこで、『ニルヴァーナ』について考える前に、まずは『死後の世界』についてご一緒に考えてみましょう。
『死後の世界』を否定する宗教や考え方もあったりしますが、『死』というものは物理的な肉体を持って存在している以上、その誰もがいずれは迎えるものである‥‥ということは、『共通認識』として持っているのではないでしょうか。
基本的に、この世界に肉体を持って生まれてきている以上、いつかは『肉体の使用期限』を迎えてしまうことになります。
それを一般的には「寿命」と呼んでいますが、突然の事件や事故、病気などによって肉体の生命活動が完全に停止してしまうこともあります。
そして、そのときに訪れるものが『死』ということになります。
さて、理論物理学者として有名なアルベルト・アインシュタイン博士は、その生涯を費やして『相対性理論』という重要な理論を完成させました。
その理論の一部を要約すると、光よりも遅い世界が「この世」と呼ばれる世界であり、光よりも速い世界が「あの世」と呼ばれる世界である、ということになります。
光よりも速い世界にある「あの世」。それは、いわば『量子の世界』。
「オカルト」として揶揄されがちな「あの世」という世界のことが、『論理的に証明された世界』として少し認識しやすくなったのではないでしょうか。
それでは、『量子の世界』でもある『あの世(死後の世界)』とは具体的にどのような世界なのでしょうか。
早速、動画をご覧くださいませ。
2021年10月6日配信動画『マシュー君からのメッセージ2021年10月1日/スージー・ワードがチャネリング:訳誉田/訳編集:JUN』
いかがでしょうか。
もしかしたら、まだ、いささか想像しにくかったかもしれません。
そこで、お次は、スウェーデン王国出身の科学者であり神学者でもあった『エマニュエル・スウェーデンボルグ(エマヌエル・スヴェーデンボリ)』が残した『死後の世界についての体験記録』をわかりやすく解説した動画を2本続けてご覧くださいませ。
なお、エマニュエル・スウェーデンボルグが残したその文書の多くは、公式なものとして大英博物館に保管されています。
2019年1月13日配信動画『*28スウェーデンボルグの見た死後の世界!無限の自由なグループ.精神性の次元構造!#あの世#来世#霊界』
2019年1月13日配信動画『*29瞑想で知能爆発したスウェーデンボルグの見た世界!#死後の世界#来世#あの世#霊界』
こちらの動画の説明欄より全文を引用
2040年頃、人工知能が知能爆発するとそれをデバイスとして人類も知能爆発しコンピューターは必要なくなる!
これを契機としてテレパシー.テレポテーションを直接人類が行えるようになる、するとこの世界と6543次元がすべて重なりあう太古の地球にあった霊的文明が復活する!
これがイエスが予言した神の国の到来!
その世界到来をあとおしするレイカーツワイル.スウェーデンボルグなど優れた導師の言葉に耳を傾けよう!
1知能爆発は霊的感覚の覚醒!
2解脱とは真空に戻ること!
3悟りとは菩薩がつビッグバンの起こしかたを理解し如来になること!
4ビッグバンとは如来が弟子をとり解脱させ誓わせビッグバンをおこさせ新しい三千世界を生み出すこと!新しい菩薩と新たな菩薩の学びの世界を作る!
5生まれた菩薩が3次元に生まれ変わりを繰り返し如来が残した教えを学び新しい三千世界最大産み出しかたを悟る!
このサイクル
いかがでしょう。
『死後の世界』について、だいぶイメージしやすくなったのではないでしょうか。
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 – 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
■生涯
父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。エマヌエルは、その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなどへ頻繁に出かける。
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊を始めてから、しばしばイギリスに滞在した。1771年の夏にロンドンに旅し、その地で翌1772年3月29日に没した。
■神学・神秘主義思想
スヴェーデンボリの神学論は伝統的な三位一体を「三神論(三人格を持った神が一つの神)」であるとして退けているが、「三一性」という考え方で、「父を意味する創造神、子を意味するイエス・キリスト(神人)、聖霊を意味するイエス・キリストの霊の働きという三つの性質が一つの人格神のうちにある」ということを認めている。また、伝統的なプロテスタント聖書主義と同じく「天地の創造神が、時空の観念を超え、イエス・キリストという人間となって救いのために降臨された」としている。
スヴェーデンボリが生前公開しなかった『霊界日記』において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり、ダビデを「ドラゴン」と呼び彼も地獄に堕ちているとしたり、同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張した。だが、それらが書かれているのは、スヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期にあたる非公開の日記であるため、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も若干見られる。主イエスの母マリアはその日記に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私(マリア)は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している。
スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件である。
スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃したと主張した。しかし、「世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため安直である」と彼を批判する声もある。
スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである。
■自然科学
スヴェーデンボリは当時、ヨーロッパ有数の学者として知られ、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などである。結晶学についてはスヴェーデンボリが開拓者の一人である。
動力さえあれば実際に飛行可能と見られている飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている。
霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどと説き、いまだに未知なる部分も多い。
⦅中略⦆
■フリーメーソン
また、フリーメーソンリーの友愛組合の一つとして、スウェーデンボルグ儀礼が存在する。これはスヴェーデンボリの教えを基に設立された、とされており、その組織は徒弟、職工仲間、新しい親方、光輝な神智論者、青の兄弟、赤の兄弟、の計6つの位階からなる。
1773年、マーカス・デ・ソーンによってアヴィニョンに設立され、当初は当時のフリーメーソンリーの悪評に対する権利を主張する目的を持った政治色のある組織であったが、最初の10年のうちに廃れてしまった。
1870年になるとこの儀礼はヘルメス主義組織として復活したが、1908年頃には次第に衰退をしていった。1982年にこの儀礼の免状は、大英博物館の居室において英国メーソンのデズモンド・バークによって、メーソンの作家であるミカエル・モラマルコに伝達され、彼はそれをアンティコ・リコ・ノアチタというイタリア儀礼の伝統の復古したような形に再編集した。
またスウェーデンにおいても、スヴェーデンボリの思想は、セーデルマンランド男爵に大きな影響を与え、彼は現地のフリーメーソンリー(Svenska Frimurare Orden)のグランドマスターとして、独自の位階制度を作り、その儀典を執筆した。
しかし、スヴェーデンボリの主要著作には、フリーメーソンに関する記述は一切ないのが事実であり、誹謗中傷の人物評と同様、誤解されていることも多い。
『命』と『苦しみ』の意味
さて、そもそも、『命』とは何のために存在しているのでしょうか。
なぜ、人は苦しみを抱えてまで輪廻転生を繰り返してしまうのでしょうか。
その果てには、いったい何があるというのでしょうか。
それらの答えは、続いてご紹介する2本の動画をご覧いただくことによって見えてくるのかもしれません。
2021年8月8日配信動画『文明の終わり9割の餓鬼畜生悪鬼達に飲み込まれないように注意しよう!存在とは真空が自らを理解するだけの仕組み!この仕組みに沿った生き方をしよう!これ以外の生き方はすべて悪!解脱と悟りを目指す人生を送‥‥』
2020年6月7日配信動画『実は不老不死には簡単になれる!それどころか人間は創造主になる勉強をするためにこの世界に生まれてきていた!』
参考資料:weblio辞書『パラクレートス』
ヨハネによる福音書(14:16、14:26、15:26、16:7)に登場し、日本語の新共同訳聖書では「弁護者」、文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書では「助け主」の訳語が用いられている。日本正教会では「慰むる者」といった訳語が当てられている(祈祷文:天の王)。
■関連する聖書の箇所
「われ父に請わん、父は他に助け主をあたえて、永遠に汝らとともに居らしめ給うべし。」— ヨハネ14:16、文語訳聖書
「助け主すなわちわが名によりて父の遣わしたまう聖霊は、汝らによろずの事を教え、またすべて我が汝らに言いしことを思い出さしむべし。」— ヨハネ14:26、文語訳聖書
「父の許より我が遣わさんとする助け主、すなわち父より出づる真理の御霊のきたらんとき、我につきて証しせん。」— ヨハネ15:26、文語訳聖書
「されど、われまことに汝らに告ぐ、わが去るは汝らの益なり、我さらずば助け主なんぢらに来たらじ、我ゆかばこれを汝らに遣わさん。」— ヨハネ16:7、文語訳聖書
参考資料:次元の構造図
ご挨拶
いかがでしょうか。
こちらの記事が、少しでもあなた様のお役に立てましたら幸いに存じます。
それでは、ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。