イエスの生涯 ① 誕生~修業時代【動画を全て文章化】

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2021年7月4日:記事の一部を修正いたしました。

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記事の概要

こちらの記事では、YouTubeチャンネル『KoJi,s Deep Max』にて配信されている動画『*36イエスの生涯しょうがい.1 誕生-修行時代.新しい視点からイエスを考える!』で語られた内容(お言葉)を全て文章化しております。

口語を文章化するにあたって、内容を理解しやすくするために若干の調整を行っておりますが、お言葉の意味が変わらないよう細心の注意を払っております。

イエスの生涯 ① 誕生~修行時代 新しい視点からイエスを考える!

イエスの生涯を追う旅

はい、こんにちは。

今日はイエスです。『イエス・キリストの生涯しょうがい』を追ってみたいと思います。

彼の記録は『4つの福音書ふくいんしょ』、彼の三人の直弟子じきでしと、そして一人の孫弟子まごでしにあたる人です。この人たちの4つの福音書によって、彼の言行録げんこうろくが本当にわずかですけど伝えられています。

その福音書では、彼はベツレヘムのガリラヤ湖周辺で生まれて、13才の時の記述を最後に、30歳の時に再びイスラエルの家に戻って来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受ける。この17年間が、すっぽりと消えています。

それから3年間です。彼はイスラエルエリアでガリラヤ湖を中心に伝道して、そして最後にイスラエルのおみやにのぼって捕縛ほばくされて十字架に掛けられるという一生を送ることになります。

彼は33才で歴史から消えるんですが、その後もインドのサイババによると、彼(イエス)は80歳近くまで生きて北インドを中心に活動したって残ってます。

その足跡あしあとを追ってみたいと思います。

(この話は)純粋なクリスチャン達からは非常に認め難い内容になります。

イエスに関する教典(経典)は、インドのあちらこちらに残っています。アガスティアの予言からも、イエスが南インドに行ったと残っています。

それらをベースに、今回は構築していきたいと思います。

はい。イエスの生涯を追う旅です。

まず第1回目は『イエスの修業時代』です。その前半の『抜け落ちた17年間』を追ってみたいと思います。

イエスの誕生

画像1:イエスの誕生

これ(画像1:イエスの誕生)は、イエスの誕生に博士たちがやって来て祝福している場面です。

画面中央(の男性)は、お父さんのヨセフです。

イエスはベツレヘムに生まれました。

ヨセフとお母さんのマリアさんはイスラエルの北側のナザレという町に住んでました。ナザレは大変な田舎です。今、伝え聞くところによると300人くらいの小さな集落です。

彼は洞穴ほらあなに住んでました。

その頃のその辺りの人たちは洞穴に住んでいて、ヨセフの洞穴、マリアの洞穴、誰々の洞穴っていう感じです。

そして、お父さんのヨセフは「大工」って言いましたけど、日本人で「大工」というとカンナとかトンカチとかを持って材木を立ち上げて家を建てるイメージがあるんですが、向こうで「大工」というと、石切職人いしきりしょくにんです。石膏せっこう職人。洞穴の中に色々な台を作ったりします。

基本的には石を切って積み上げたり。石が中心の文化です、向こう(の文化)は。

ですから、日本語の聖書の翻訳ほんやくって非常に違ってます。

今、見えてる場面(画像1:イエスの誕生)もです。(イエスは)洞穴で生まれました。

『馬小屋で生まれ』と日本語では訳されてます。

私も現地に行ってきました。

大きな洞穴があって、非常に長い3本4本と続いている洞穴があって、その端の洞穴の底(床面)にわらを積み上げて、そこでイエスは生まれました。

当時は人口調査があって、ヨセフはマリアをロバに乗せて、4日、5日くらいかかってナザレ村からイスラエルのお宮の方に渡って、そこで人口調査に登録して、産気さんけづいて宿を探したけど(宿が)無くて、それで大きな馬の洞穴の端っこを借りて、イエスはそこで生まれました。

そして、そこへです。東方から来た博士たちはアストロジーで『偉大いだいなる救世主きゅうせいしゅ』が生まれることを突き止めました。最初は(博士たちは)別なところに行ったんです。王様の所に行ったんです。そこには(救世主が)いないってことが分かります。

そこで不思議な星に導かれて、このベツレヘムの外れのイエスが生まれた洞穴にたどり着きます。

(画像1:イエスの誕生は)そこで生まれたばかりのイエスを祝福している場面です。

イエスの幼少期と、腐敗しきったイスラエル

画像2:勉強中のイエス

この家は、イエスがナザレ村に帰って、お父さんのヨセフの洞穴ほらあなの中でテーブルに座ってヨセフから勉強を教えてもらっているとこです。

左にお母さんのマリアが居ます。

この前にですね、もともとユダヤ人には、自分たちの中から1人の救世主が出て来てイスラエルの民をぼくするという預言よげんがあります。それを読んでみますね。

お前、ユダの地なるベツレヘムよ。お前はユダの町々の中で最もおとっているものでは決してない。一人の偉大いだいなる支配者が、お前の中から出て我が民イスラエルを牧するのだから。

イエスが生まれた当時、ヘロデという王様がユダヤ人のイスラエル王国を治めていました。

当時の巨大地中海帝国は、ローマが治めていました。

このイスラエルは、その中の非常に反抗的なユダヤ人の小さな国として、手に負えないような小さな国でした。今で言うと『テロリスト団体』です。ローマの言うことに逆らう、そういう団体が、このイスラエル人の中にもいくつかありました。

そして東の国から、まずヘロデ王の時に博士たちがエルサレムに来て、博士たちはアストロジーで「今度 生まれたユダヤ人の王キリストはどこにいますか? 我々は、その方の星が出るのを見たのでおがみに参りました」とヘロデ王に言ってしまったので、ヘロデ王は、「そんな大王が生まれて私からこのイスラエルを盗ってしまうのか」と恐れました。そしてこの博士たちがどこに行くのかを追跡調査させました。

その結果、(博士たちは)ベツレヘムに行ったと解りました。そして、そこにキリストが生まれたということを確信したヘロデ大王は、ベツレヘムで生まれた2歳以下の子供達を殺してしまいました。

イエスがそのなんを逃れるため、天使がヨセフの夢の中に出て来て「エジプトに逃げなさい」という預言を残しました。そして、その間、この家族はエジプトに逃れていました。

そして再び天使がヨセフの夢の中に出てきて、「もう大丈夫だから戻りなさい」って言われたので、家族はナザレ村に戻って、そして安心して暮らし始めたところがこの絵(画像2:勉強中のイエス)です。はい。

当時イスラエルを治めていたヘロデ大王っていう人は、(いわば)戦国武将の中の戦国武将で、身内もほとんど全部殺して王の位についた人なので、非常に獰猛どうもうな人というか、容赦ようしゃのない人でした。

サティアサイババが語るイエス

画像3:イエスの足跡(そくせき)

サティヤサイババによると、イエスが17歳の時、「イエスは非常に聡明そうめいな子である。彼こそメシアではないか?」という評判がイスラエル中に立ってきて命を狙われるような状況になったので、(イエスが)17歳の時、イエスの支持派の人たちがイエス少年を隊商(キャラバン)に混ぜて北インドに旅に出したと伝わっています。

サティアサイババによると、イエスは17歳の時に隊商に混ざって旅に出て、最初、北インドに入ったって言っていますね。

最後には、イエスは76歳……80歳近くになって、このラフォールって所でお亡くなりになったとサティアサイババは語っています。このあたりがイエスについて書かれた書物になって今も残ってるって言われています。はい。

イエスと法華経の出会い

『イッサ伝(聖イッサ伝)』という伝承がチベットにあって、それによると、イエスは最初、北インドに入って、そこでいろんな先生に付いて(師事しじして)3年くらいヨーガを学んでいたって言われています。

イエスが使った『超能力(神通力じんつうりき)』、あれは完全にインドの『ヨーギー(ヨーガ)』の使う神通力です。モノを物質化したり(何もないところから物質を生み出したり)、水の上を歩いたり、予言(もしくは預言)をしたりとかですね。

 サティアサイババとか『アガスティア』とかが使っていたのは、こういうものです。

その後、イエスは仏教の『一切経いっさいきょう』を読み始めます。

当時のイエスが生きていた頃は、ちょうど統一されたマガダ国が滅亡して、パーリ語とサンスクリット語に翻訳ほんやくされたものが『経典きょうてん』になって流布されていた時代って言われています。

イエスはお釈迦様しゃかさまの教えに気が付くと、『一切経』の全体を読み始めます。その中で、当然『法華経ほけきょう』に気がついて、ヨーガも何もかも全部捨てて、『経典:法華経』だけを持って20歳の時にヒマラヤの人の居ないエリアに入って行ったと言われています。それで、昼は法華経を読んでは瞑想めいそうし、法華経を読んでは瞑想し、という生活を5年間続けて、そうして25歳のときに『悟り』を開いて、『自分は旧約聖書に書かれたメシアである』ということに気がついたと言われています。

しかし、旧約聖書に書かれた内容──メシアは最初に『無敵の神通力(いわゆる神の御業みわざ)』を人民に示した後、犬のように弟子でし達から裏切られ、鞭打むちうたれ、そして十字架にかけられてさらし者にされて、殺されて、それから3日後(亡くなった3日後)に復活してその(神々しい)姿を弟子たちに見せることによって、弟子達を『無敵の菩薩ぼさつ(無敵の使徒しと)』に変える──こういう人生をイエスは一瞬で悟ります。

(イエスは)その人生を嫌だと思いましたね、殺されるっていうのが。

そしてアガスティアの予言によると、(イエスは)25歳の時に南インドに行って、そこで5年近く逃避生活をしていたと言われていますね。

しかし、(イエスは)考え直します。やはり『メシアとしての一生を過ごそう。神の御心みこころにかなう一生を送ろう』と決断して、また、ず~っと(南からの行路をたどって)北インドからエルサレムに戻ったとアガスティアの預言には出ていました。

そしてチベットに伝わる「イッサ伝」という伝承によると、イエスはカピラヴァスツとかラージャグリハ──グリドラクータ(霊鷲山りょうじゅせん)とかお釈迦様が法華経を説いた場所──あと、ベナレス──お釈迦様が『初転法輪しょてんほうりん』をした所──とかを観光で周ったり巡礼じゅんれいして、そういう時間を過ごしたと書いてあります。

ですから、イエスの人生にとって『釈迦と法華経』っていうのは彼の人生にとって『一番大きなもの』です。それが全然 聖書では伝わってないんですが、もしも5番目の『シモン・ペテロの福音』が出てくる世界や時代があったとしたら、そこにはそれらが全て書いてありますね。

イエスが修業時代に見た景色

画像4:イエスが修業時代に見た景色

当時のイエスが修行時代にインドで見た風景ですね。こういった風景をたぶんイエスは見ていました。

こんな村々(画像4の左上)が続いていたでしょうし、食べ物も、南インドではミールスを、北インドではターリーを、こういったものをイエスも手で(手掴てづかみで)食べていましたね(画像4の左下の食べ物)。

こういうお寺(画像4の下側中央)なんかも南インドに来たときには見ていましたし、『サドゥ(ヨーガの実践者じっせんしゃ放浪ほうろうする修行者)』とかもいっぱいいたでしょう。『護摩焚ごまだきの儀式ぎしき』とかも見ていますね、イエスは。

そして仏教の経典、(特に)『法華経』に気がつくと、それにしか興味がなくなります。イエスレベルの人だと、もうそれしか読みません。

イエスと当時のユダヤ人は、ヘブライ語、ギリシャ語 、アラム語、このあたりを話していたといいます。さらにイエスは何年かかけてパーリ語、サンスクリット語あたりまで読むことが出来るようになっていたでしょうね。

その後、 イエスは『ほとけ』のことを『父上ちちうえ、父上』って呼ぶんですけど、 『父上』はヘブライ語では『ヤーベ(ヤーブ、ヤーヴェ)』っていうんですよ。日本人から見ると『ヤーベ』っていうのはユダヤ人が「神様、神様」って言ってるように見えるんですけど、実は「お父さん、お父さん」という意味なんです。

ですから、イエスは『仏』のことをいつも『ヤーべ』って呼んでいました。

ヘブライ語で神様のことは『エロヒム』っていいます。ですから(イエスは)『神』と言う言葉は使わないで(仏のことを)『父上、父上』って言っていました。

◆注釈

聖書でイエス様は『アバ』という言葉を使っています。『アバ』はアラム語で『父上』という意味です。
参考:マルコ14章36節
『ゲッセネマでの祈り』にて『Abba』という語が英語の聖書にも記述されています。

◆注釈

『十戒』には『神様、神様とみだりに呼んではいけない』という掟があります。

この『父上(ヤーベ)』って言葉は『法華経の如来寿量品にょらいじゅりょうほんの医者のお父さんのたとえ』から来てますね。

医者のお父さんが子供たちを育てていた。『法華経(宇宙の始まり)』を、なんでこの世界は生まれたのかを解き明かしていたんですけど、(医者のお父さんは)それを『経典きょうてん』に残して去ってしまった。

子供たちはお父さんがいなくなったので悲しんでいたんですけど、お父さんが「学べ」と言って残してくれた『経典(法華経)』を一生懸命いっしょうけんめいに学びました。そして、それ(法華経)を『くすり』として学んだ子供は、ちゃんと成長して『良い如来』になった。

(すると、)その頃、ちょうどお父さんが帰って来ました。お父さんは、『ちゃんと学んだ良い子供』と『学ばない悪い子供』に分けました。

この『如来寿量品にょらいじゅりょうほんたとえ』から、『ほとけ』のことをイエスはのちに『ヤーべ』と言いましたね。『父上ちちうえ』という風に。『エロヒム』という言葉は使いませんでした。

参考資料:Wikipedia『ヤハウェ』

■普通名詞
ヤハウェを指して、いくつかの普通名詞もしくはそれに類するものが用いられる場合がある。次にヘブライ語表現をカタカナで、また対応する訳語を漢字で示す。
・アドナイ 主
・エル(単数形)
・エロヒム(複数形) 神、上帝

■主
日本語訳聖書では今日、一般に、原文において「יהוה(ヤハウェ)」とある箇所を「主」と訳す。これはおもに、消失の経緯で後述するユダヤ人の慣習による。今日のユダヤ人はヤハウェと読まずに、アドナイ(「わが主」)という別の語を発音するためである。カトリック系の『バルバロ訳』のほか、『口語訳聖書』(日本聖書協会)などがこれである。また、口語訳聖書を後継する『新共同訳聖書』(同)も、一部の地名(『創世記』第22章14節、#固有名詞で後述)を除き、一貫して「主」とする。プロテスタント福音派系の『新改訳聖書』では太字で「主」とする。これは「文語訳ではエホバと訳され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を」「訳し」た「主」と、これを「代名詞などで受けた場合かまたは通常の<主>を意味することば」とを区別するためである。1893年の時点で日本聖公会も、エホバではなく主の語を用いるべきだとしている。

主に「英語圏」・「スラブ語圏」となるが 実際の「聖四文字」の表記例を「出エジプト記20」から挙げる。

■神
旧約聖書では、「神」という一般名詞であるエル(古典的なヘブライ語発音でエール)やその複数形「אלהים(エロヒム)」もヤハウェの呼称として用いられる。一般に、日本語訳聖書ではこれらの音訳は使用せず、これに相当する箇所は漢訳聖書での訳語を踏襲し神とするものが多い。「全能・満たすもの」を意味するとされるシャダイの語を付してエル・シャダイとした箇所は、全能の神などと訳される。

Wikipedia『ヤハウェ』より抜粋して引用

イエスが愛した風景 イエスが学び、伝えたかったこと

画像5:チベットエリア

はい、これはチベットエリアの写真ですね。(画像5)

考えてみると、イエスのだいたい80年の人生の4分の3(およそ60年)はインドとチベットで過ごしていましたね。

ですから彼の人生にとっては本当にイスラエルで暮らした時代っていうのはかなり短くて、むしろこういう文化と風景の中で暮らしていました。

後に、彼(イエス)の弟子の‥‥この人(画像5の下の段、左から二番目の人物)‥‥フィリポ(またはピリポ)というんですけど、この人はインドのマドラスで死んでいます。

こういう仏教遺跡いせき(画像5の中央)なんかもイエスは見てました。相当こういう風景を見ていました。

そして、如来にょらい菩薩ぼさつの関係』、『なんで何もない真空にビッグバンが起きたのか』を法華経から解き明かして、それで『さとり』にいたりますね。

それで、(イエスは)だいたい、チベットにいたときは、こういう袈裟衣けさごろもを着た仏教徒たちと一緒に過ごしていたので、こういう人達と一緒にいる時間が彼にとっては『至福の(最高の)時間』でしたね。はい。

ですから、(イエスの人生とは)我々の思っているイエスの西洋的なイメージとは全く違う東洋的な人生ですね。

瞑想めいそうと、法華経ほけきょうと、そして『さとり』ですね。

まあ、彼の脳裏のうりには、こういう言葉が常にありましたね。

『ブッダ』『仏教』『釈迦しゃか』『シャリープトラ』『モッガラーナ』『プールナミタラニシ』とか。

ですから、イエスを理解するうえでは、いま写っている(画像5の)ような『仏教文化』、そして『インド文化』というものを理解すると、彼が語ってのちに聖書にまとめられた言葉、また、彼が成しげた『神通力じんつうりき』、こういったものが全てわかります。

ですから、むしろインドの中にこそ『イエスの教えを本質的に理解するヒント』、それがたくさんありますので。はい。

イエスにとっての喜びと、『一粒の麦が死なずば』の真意

画像6:イエスにとって一番懐かしい風景

この風景(画像6)なんて、もう、イエスにとって一番懐かしい自分の故郷を見ているような風景でしょう。これ、夏のヒマラヤなんですけど。

このインドの広大な地、チベットの広大な山脈を見ながら『悟り』を開いた彼(イエス)にとっては、むしろイスラエルとか、ああいう所は『偏狭へんきょうなユダヤ人たちがり固まった小さなコミュニティ社会』で、しかも彼から見ると『もう終わってしまった一つの文化』ですね。

そこにイスラエルの宮殿があったりして、そこがまたローマに支配されている、そういったものは非常にストレスになりましたね。はい。

彼(イエス)は、宇宙の始まり‥‥『なんで何もない真空にビッグバンが起きて、いま地球があって、自分がここにいるのか』。そして、この法華経を読んで、『9次元構造』『一念三千いちねんさんぜんの無限の並行宇宙』。そして『真空、仏国土ぶっこくど欲界よくかい』っていう『三界構造さんかいこうぞう』。こういったものを理解して、そして『天人てんじんたち』や『精霊せいれいたち』と話をしていましたね。『菩薩ぼさつ』や『天人』や『天使たち』なんかと(話をしていました)。

しかし、彼はですね 、幼い頃から学んでいた旧約聖書で『自分はユダヤ文化圏ぶんかけんの人間であり、そこで教えを説いて、そして十字架にあげられることによって、その教えが世界中に広まる』。これをこのとき彼は理解していましたね。

彼の有名な言葉で、

一粒ひとつぶの麦は地に落ちて死なねば、いつまでも一粒である。だから私は命を捨てる。この世の命を可愛がるものは永遠とわの命を失い、この世の命をにくむ者だけが永遠の命に入る

こういう言葉を残しています。これなんか完全に『釈迦の教え』から来ている言葉ですね。

彼(イエス)は30歳ぐらいまでインドを放浪ほうろうした後、意を決して再びイスラエルの地に戻ります。そして世界に教えが広まるという運命に挑戦ちょうせんすることになります。

ここでイエスの『修業時代』っていうのは終わりますね、はい。

《 動画はここで再生終了です 》

動画内のお言葉の文章化:ボダナンバク

文章の校正&注釈:文殊もんじゅふくこ

記事の作成:観慈在 かんじざい優智香ゆうちきょう

補足資料:Wikipedia『仏教とキリスト教』より

仏教とキリスト教

ガウタマ・ブッダとイエス・キリストの間には、そして仏教とキリスト教の間には類似点が見いだせるため、両者の間に関係があるかどうかが考察されている。両者間の類似は、ヘレニズム世界とインド亜大陸の文化的交流に起因すると推測されている。

福音書

ブルクハルト・シェーラーは以下のように述べた:

 

[…]福音書に対する仏教の強い影響に注意することが重要である[…]数百年以上前から、仏教の福音書に対する影響が知られ、両宗教の学者によって認められてきた。
彼はジョン・ダンカン・マーティン・デレットの研究『The Bible and the Buddhist』の結論に同意し、「私は多くの仏教説話が福音書に含まれていることを確信した」と書いている。

 

クリスチャン・リントナーは、パーリ語仏典およびサンスクリット仏典をギリシア語の福音書と比較し、四つの福音書はゲマトリアの音価、地口、対応する音節に基づいてより古い仏教経典から改良されたものだと結論した。彼の著作を精査したものは、ギリシア語とサンスクリットが同語族であるために、彼のゲマトリアの音価や対応する音節は一致し、彼の地口が存在するのだと主張した。彼の著作を支持するものは、発見は独自の物であり、関係の見いだせない文学に関しては同様の発見はできないと主張している。

 

イエスの福音はイエスの父の名前を隠すために非常に寓意的・神秘的であった、とダニエル・ホプキンスは主張しており、ホプキンスはイエスの父をブッダの名前で呼んでいる。

仏教徒のイエスに対する考え

ダライ・ラマ14世を含む何人かの仏教徒は、イエスを人の幸福のために身をささげたボーディ・サットヴァだとみなしている:

 

イエス・キリストも過去世を生きました。だから、ご承知の通り、彼は仏教の実践を通じてボーディ・サットヴァ、つまり啓蒙された人間と同じ高みに到達したのです。

イエスもブッダも、当時の一般的な宗教的慣習に代わる過激な教えを唱道した。彼らが反対する宗教的権威に言及するとき、盲人の列という一般的なメタファーの使用のような類似が時々見られる(ディーガニカーヤ 13.15, マタイによる福音書 15:14)。仏教徒の中には、仏教(あるいは一般的に東洋の精神的な思想)とトマスによる福音書のようなグノーシス主義のテクストの教義の間に、特に強く類似が見られると考えている者もいる。ただし、トマスによる福音書は外典である。

 

14世紀の禅僧である峨山韶碩は、弟子の一人が福音書に含まれる物語を読んだ際、福音書は悟りを得た存在によって書かれたものであることを指し示した:

 

「そしてなぜあなたがたは着る物の心配をするのか。野に咲く百合の花を考えてみよ、それらがいかに育つのかを。彼らは骨折って働くわけでも、紡ぐわけでもない。さらに私はあなた方に言う。栄華を極めたソロモンですら、百合の花ほども着飾らなかった[…]それゆえ明日のことなど考えるな、というのは明日には明日の考えがあるからだ」
峨山は言った:「私はこのような言葉を発する者は、誰であろうとも悟りを得た者だと見よう。」

観音菩薩と聖母マリア

中国学者のマーティン・パルマーは、おとめマリア(聖母マリア)と観音菩薩の類似性について述べている。観音菩薩はインドやチベットにおける男性のボーディ・サットヴァ、アヴァローキテーシュヴァラの中国名である。アヴァローキテーシュヴァラは、トルコへのネストリオス派の宣教の後、最初の一千年紀の間に中国で徐々に女体化が進んだ。台湾の仏教組織の慈済基金会もこの類似性に気付いていて、聖母子像に特に似せた観音菩薩と子供の図画を画家に注文している。

 

江戸時代の日本では、キリスト教は禁止され、キリスト教を棄教しない者は死罪に処せられた。そこで、隠れキリシタンの中には、観音菩薩像を聖母マリアに見立てて密かに崇める者もいた。その像は現代では「マリア観音」として知られているが、隠れキリシタンが実際に所持していたマリア観音像そのものはほとんどが観音菩薩であり、マリア像として作られたものではない。

出典:Wikipedia『仏教とキリスト教』

こちらの記事の出典となる動画

*36イエスの生涯.1 誕生-修行時代.新しい視点からイエスを考える!

■動画再生時間:21分09秒  ■動画の投稿日:2019年1月23日

上記動画の続編『イエスの生涯.2 イエスが成し得た事と3つの予言.黙示録.悟り!新しい視点からイエスを見る!』を文章化した記事はこちらからお読みいただけます

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