映画で学ぶ『福音書』

Bible Studies

『新約聖書』と『福音書』

『新約聖書』と呼ばれるものは、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で『キリスト教の聖典』とされています。
その内容は27の書によって構成され、『イエス・キリストの生涯しょうがいと言葉』『初代教会の歴史』『初代教会の指導者たちによって書かれた書簡しょかん』、そして最後に『ヨハネの黙示録もくしろく』が記録されています。

その中でも特に重要とされる『イエス・キリストの生涯と言葉』を記したものが『福音書ふくいんしょ』と呼ばれ、現在では『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』『ルカによる福音書』『ヨハネによる福音書』の四つが『キリスト教の聖典の核心となる福音書』として認識されているようです。

また、『福音』とは、古代ギリシア語に由来する言葉で、『良い知らせ』という意味を持つとされています。
これは、イエス・キリストの十字架刑と復活の後、イエスの弟子たちが『神の国が到来した』というイエスのメッセージを世界に広げるために布教を始める際、弟子たちがそれを『良い知らせ』と呼んだことに由来すると考えられています。
なお、四つの『福音書』の中で最初に書かれたと考えられる『マルコによる福音書』では、その冒頭が『イエス・キリストの良い知らせの初め』で始まっています。

そこで、こちらの記事では、『新約聖書』の中でも重要な位置づけとされている四つの『福音書』の内容を、映画を観賞(もしくは鑑賞)する感覚で学べる動画をご紹介いたします。

『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書に相当するもので現在読まれているものとは異なり、アラビア語で「インジール」と呼ばれる)が啓典とされている。

『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。

「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはイエスが生まれる前までを旧約聖書、イエス生誕後を新約聖書がまとめている。

 

■名称
旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である。アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。

 

「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」(Καινή Διαθήκη)あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでにセプトゥアギンタのエレミヤ書31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。

 

新約すなわち新しい契約という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた初代教会の人々によって用いられた。2世紀のテルトゥリアヌスやラクタンティウスは神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。ラテン教父のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。

 

5世紀のラテン語訳聖書(ヴルガータ)では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。

 

■内容
『新約聖書』の各書はすべてイエス・キリストとその教えに従うものたちの書であるが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっている(そもそも初めから新約聖書をつくろうとして書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物をまとめて成立したものとされる)。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間(全書物のうちで最初のものが書かれてからすべてがまとまるまでの期間)が短いということがいえる。

 

以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストである。なお各書の呼称は、現代の日本キリスト教においてもっとも広く用いられているであろう『新共同訳聖書』における表記を用い、それ以外の呼称や略称も併記しておく。

 

■福音書
イエスの生涯、死と復活の記録
・マタイによる福音書 (マタイの福音書、マタイ書、マタイ伝) 税吏出身の使徒マタイ
・マルコによる福音書 (マルコの福音書、マルコ書、マルコ伝) ペトロとパウロの弟子であったマルコ
・ルカによる福音書 (ルカの福音書、ルカ書、ルカ伝) おそらくパウロの弟子であったルカ
・ヨハネによる福音書 (ヨハネの福音書、ヨハネ伝) 使徒ヨハネ

 

■キリスト教で認められてきた記者
聖書自身の自己証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。

 

『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえばパピアスは140年ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという(エウセビオスが『教会史』の中で、このように引用している)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。

 

■批判学の見解
これらの伝承には証言自体の他の外的な証拠はない。近代以降の批判的聖書研究では伝承通りの著者でない著者を想定することが多い。『新約聖書』におさめられた各書は最初の著者だけでなく、後代の人々によって加筆修正されているとも主張される。加筆された可能性が高い部分として有名なものは『マルコ福音書』の末尾と『ヨハネ福音書』の「姦淫の女」のくだりである。

 

ルカ以外の3書はいずれもユダヤ戦争中のエルサレム陥落と解釈できる言及があり、これが70年の出来事であることから、3書の完成はこれを遡らないと推測されている。またルカ書は更に降ってエルサレム神殿の破壊後の完成であると考えられている。ただしルカ書の著者はルカ書の続編として使徒言行録を書いているが、使徒言行録はパウロのローマ宣教までで終わっており、後代の伝承に見られパウロ書簡の中で示唆されるイベリア宣教と、有名なネロ帝迫害下でのローマでの殉教(紀元64年頃)までは記されていない。この原因は不明である。 またイエスの奇蹟とされる事象には当時の新皇帝ウェスパシアヌスを称揚するために流布された奇蹟譚と類似するものが多い。これらの書が『新約聖書』としてまとめられたのは150年から225年ごろの間であるといわれる。福音書で最も遅い成立とされる『ヨハネ福音書』はユスティノスによる引用が見られることから紀元160年頃までには成立している。

 

■歴史書
イエスの死後の初代教会の歴史
・使徒言行録 (使徒の働き、使徒行伝、使徒行録、使徒書 別名:聖霊行伝) ルカ

 

■書簡
書簡にはさまざまな内容のものが含まれている。歴史的キリスト教会はこれが神の啓示であるとしてきたが、批判的研究では、それらから初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができると主張される。書簡の中には著者の名前が書かれているものもあるが、高等批評ではそれらは本当の著者というわけではないといわれる。近代以降の高等批評によって、多くの書簡が、著者とされる人物の名を借りた偽作であると主張された。

 

■パウロ書簡
詳細は「パウロ書簡」を参照
『パウロ書簡』とは使徒パウロの手紙(歴史的キリスト教会がパウロのものとしてきた手紙)の総称である。近代の高等批評では牧会書簡だけでなく、いくつかのパウロ書簡は単にパウロの名を借りただけのものであると主張され、そのようなものは「擬似パウロ書簡」などと呼ばれる。一般に高等批評ではパウロ書簡の成立が福音書群に先立つとしている。

 

・ローマの信徒への手紙 (ローマ人への手紙、ローマ書) パウロ
・コリントの信徒への手紙一 (コリント人への手紙一、コリント前書) パウロ
・コリントの信徒への手紙二 (コリント人への手紙二、コリント後書) パウロ
・ガラテヤの信徒への手紙 (ガラテヤ人への手紙、ガラテヤ書) パウロ
・エフェソの信徒への手紙 (エフェソ(エペソ)人への手紙、エフェソ(エペソ)書) パウロ
・フィリピの信徒への手紙 (フィリピ(ピリピ)人への手紙、フィリピ(ピリピ)書) パウロ
・コロサイの信徒への手紙 (コロサイ人への手紙、コロサイ書) パウロ
・テサロニケの信徒への手紙一 (テサロニケ人への手紙一、テサロニケ前書) パウロ
・テサロニケの信徒への手紙二 (テサロニケ人への手紙二、テサロニケ後書) パウロ
・テモテへの手紙一 (テモテ前書、一テモテ) パウロ(牧会書簡)
・テモテへの手紙二 (テモテ後書、二テモテ) パウロ(牧会書簡)
・テトスへの手紙 (テトス書) パウロ(牧会書簡)
・フィレモンへの手紙 (ピレモンへの手紙、フィレモン(ピレモン)書) パウロ

 

■公同書簡
詳細は「公同書簡」を参照
公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。各々の書物には伝承の著者たちがいるが、近代以降の批判的研究はそれらが単に使徒の権威を利用するために著者名としてその名を冠したと主張した。

 

ヘブライ人への手紙 アポロ著者説があるが確定できない。
・ヤコブの手紙 (ヤコブ書) 主の兄弟ヤコブか?
・ペトロの手紙一 (一ペトロ(ペテロ)) ペトロ
・ペトロの手紙二 (二ペトロ(ペテロ)) ペトロ
・ヨハネの手紙一 (一ヨハネ) 使徒ヨハネ
・ヨハネの手紙二 (二ヨハネ) 使徒ヨハネ
・ヨハネの手紙三 (三ヨハネ) 使徒ヨハネ
・ユダの手紙 (ユダ書) 使徒ユダ (タダイ)と主の兄弟ユダの二説がある

 

■黙示文学
・ヨハネの黙示録 (ヨハネへの啓示)使徒ヨハネ

 

■外典
上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、外典と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。

 

■言語
イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉はアラム語であった(ヘブライ語という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたいわゆる古典ギリシア語は用いられていない)。

 

その後、早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり、ヘブライ書もヘブライ語版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する学者はきわめて少数である。

福音書(ふくいんしょ、ギリシア語: Εὐαγγέλιον, ラテン語・ドイツ語: Evangelium, 英語: Gospel)は、キリスト教の聖典の核心である、イエス・キリストの言行録である。通常は新約聖書におさめられた福音書記者による四つの福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)を意味する。その他にトマスによる福音書などがあるが、正典として認められなかった外典文書である。

 

日本正教会では福音経(ふくいんけい)とも呼ばれる。これは福音書を、奉神礼において詠まれる祈祷書(経典)の一つでもあると捉える考えに基づいている。

 

■概説
「福音」とは、古代ギリシア語: εὐαγγέλιον, euangelion に由来する言葉で、「良い(eu- エウ、”good”)知らせ(-angelion アンゲリオン、”message”)」、”good news” という意味である。つまり、マラトンの戦いの勝利の伝令のような戦争の勝利や出産など、喜ばしいことを伝える手紙などを指した。イエス・キリストの十字架刑と復活(紀元後30年頃)の後、イエスの弟子(使徒)たちは「神の国(支配)が到来した」というイエスのメッセージを世界に広げるために布教を始めたが、これを弟子たちは「良い知らせ」と呼んだのである。四福音書中最初に書かれたと考えられるマルコによる福音書は、その冒頭を「イエス・キリストの良い知らせの初め」で書き出している。

 

イエスの言行録という意味でなく、「良い知らせ」という意味での福音という言葉の用例は、パウロの『コリントの信徒への手紙一』15:1にみられる。そこでパウロはイエスの死と復活こそが福音であるといっている。このことからもわかるように、福音書は単にイエスという人物の伝記や言行録ではなく、その死と復活を語ることが最大の目的となっている。

 

正典の福音書において見られるイエスの生涯における主な出来事としては以下のようなものがある。

・誕生
・イエスの少年時代
・洗礼者ヨハネによる受洗
・荒野の誘惑
・山上の説教
・ユダヤ各地での布教
・変容
・エルサレムでの演説
・最後の晩餐
・逮捕
・裁判
・十字架刑
・復活

 

福音書(福音)という言葉が現代のような特定の文学ジャンルを指すようになったのは2世紀のことであった。155年ごろのユスティノスの著作の中ではすでにこの用法が現れ、117年ごろのアンティオキアのイグナティオスもそのような意図で「福音」という言葉を用いていると見てもいいかもしれない。

 

イエスの十字架刑からの復活以降、いくつかの「福音書」が執筆されたが、その中で新約聖書に正典として受け入れられたのは四つであった。最初期のキリスト教神学者の一人、エイレナイオスは四つの福音書が特別な地位にあることを力説した。彼は著作『異端反駁』(Adversus Haereses)の中で、一つの福音書しか受け入れないキリスト者グループや新しい黙示文書を受容したヴァレンティアヌス派のようなグループを非難している。エイレナイオスは新約聖書の四福音書こそが教会の四つの柱であるという。「四つ以上でも以下でもない」と四が東西南北の四方位などをあらわす重要な数字であるという。エイレナイオスはさらに『エゼキエル書』1章にあらわれる四つの生き物(人の顔をしたもの、獅子、鷲、牡牛)を四福音書の予型であると見ている。ここから四福音書の福音記者のシンボルが生まれた。

 

■日本語訳
詳細は「日本語訳聖書」を参照
16世紀のキリスト教伝道以来、福音書も含めて聖書は様々に翻訳されてきた。キリシタン時代はイエズス会などのカトリック宣教会が日本で、19世紀にはプロテスタントの宣教師達が中国などの国外で日本語への翻訳事業を試みている。開国後はヘボンらが組織的な翻訳事業を起こし、その結果が明治元訳となった。その後、聖書協会の主導で大正改訳、口語訳、新共同訳などの改訳が作られ、これらが日本語の中で広く知られる翻訳となったが、聖書ことに福音書は多くの個人や組織によって日本語に翻訳されている。

 

■金装福音経
正教会においては、福音経を金色などに装飾し、イコンも加えられる事が多い。これは視覚的な象徴表現を多用する正教会にあっては、福音経も視覚的な象徴表現の対象となり、教会にとって最も重要な経典でありかつイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の言葉・イイスス・ハリストスそのものを表す福音経は、奉神礼にあたって美しく示されて当然であると考えられてきた伝統に基づく。

 

■外典福音書
詳細は「外典福音書」および「外典」を参照
新約聖書におさめられた福音書以外にも「福音書」と冠される著作が存在するが、これらは外典福音書と呼ばれる。外典福音書のほとんどは正典のものより後の時代に成立し、一部の信徒によってのみ用いられていたと考えられる。

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マタイによる福音書

動画タイトル『LUMO マタイの福音書』
■動画再生時間:3時間09分56秒  ■動画の投稿日:2018年12月12日  ■チャンネル名:OneHopeJapan

マルコによる福音書

動画タイトル『LUMO マルコの福音書』
■動画再生時間:2時間03分18秒  ■動画の投稿日:2018年12月13日  ■チャンネル名:OneHopeJapan

ルカによる福音書

動画タイトル『LUMO ルカの福音書』
■動画再生時間:3時間24分48秒  ■動画の投稿日:2018年12月12日  ■チャンネル名:OneHopeJapan

ヨハネによる福音書

動画タイトル『LUMO ヨハネの福音書』
■動画再生時間:2時間40分36秒  ■動画の投稿日:2018年12月8日  ■チャンネル名:OneHopeJapan
動画内容より抜粋して引用

ユダヤ人の指導者たちは、イエスを安息日の違反者だとして、しつこく攻撃を始めました。
ところが、イエスはお答えになりました。

私の父は、絶えず良い働きをしておられます。私はその模範にならっているのです。

これを聞いたユダヤ人の指導者たちは、ますます、イエスを殺そうと思うようになりました。
イエスが安息日のおきてを破ったばかりか、事もあろうに神を「父」と呼んで、自分を神と等しい者としたからです。
イエスはお答えになりました。

よく言っておきます。
子は自分からは何もできません。ただ父がしておられることを見て、同じようにするだけです。
父は子を愛して、自分のすることは何でも子に教えてくださるのです。
神の子は、病気を治すということなどとは比べものにならない驚くべき奇跡を行います。
父が死人を生き返らせるように、子も、思うままに人を死人の中から生き返らせもするのです。
父は、罪の裁きをいっさい子に任せておられます。すべての者が父を敬うように、子をも敬うためです。
だから、父なる神がおつかわしになった神の子を敬わないのは、父を敬わないのに等しいのです。

 

よく言っておきます。
私の言うことを聞き、私を遣わされた神を信じる人には誰でも、永遠のいのちがあります。
罪のためにばっせられることは絶対にありません。すでに死からいのちに移っているのです。

 

はっきり告げましょう。
死人が神の子である私の声を聞く時が、もうすぐ来ます。
いや、もう来ているのです。そして、聞いた者は生きます。父がご自分のいのちを、子にも与えて下さったからです。
また、全人類の罪をさばく権威けんいも下さいました。それもみな、子がメシヤだからです。
驚いてはいけません。墓の中の死人がみな、神の子の声を聞く時が来ます。
その時、彼らは復活します。良いことをしてきた者は、永遠のいのちをいただくために、悪いことをし続けてきた者はさばきを受けるためにです。

 

しかし私は、父と相談もせずにさばいたりはしません。ただ言われるとおりにさばくだけです。
ですから、わたしのさばきは絶対に公平で正しいのです。自分の考えだけによらず、私を遣わされた神の意思に従ってさばくからです。

 

私が自分について証言しても、誰も信じないでしょう。
しかし、私のことを証言してくださる方が他におられます。その方の証言は間違いなく真実です。
あなたがたは、バプテスマのヨハネの教えを聞こうとわざわざ出かけて行きました。
確かに、ヨハネが私について証言したことは本当のことです。

 

しかし、私についての最高の証言は、人間による証言ではありません。
ただ、ヨハネが証言していたことを思い出せば、あなたがたも私を信じて救われるかもしれないと願って、ヨハネのことを話しているのです。

 

ヨハネはしばらくの間、ひときわ明るく輝き、あなたがたもそれを喜びました。
しかし私には、ヨハネの証言よりも、もっと優れた証言があります。
それは、私の行う奇跡です。これらの奇跡は、父が私にたくされたもので、父が私をお遣わしになったという動かぬ証拠なのです。
また、父ご自身は直接あなたがたに姿を現したり、語りかけたりはなさいませんが、私のことを証言しておられます。

 

ところが、あなたがたは父のことばを聞こうともしません。
神のことづけを伝えるために遣わされた私を信じないのですから。

 

あなたがたは、永遠のいのちを見つけようと熱心に聖書を調べています。その聖書が私を指し示しているのです。
それなのにあなたがたは、私のところに来ようともしません。だから永遠のいのちを受けることができないのです。
あなたがたが私を認めなくても構いません。あなたがたのうちには神の愛がないのですから。

 

私は父の代理として来たのに、あなたがたは喜んで迎えてはくれません。それどころか、自分の権威で来るほかの者は、手をたたいて迎えるのです。
もっとも、あなたがたが信じられないのも無理はありません。
互いにほめ合ったり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神からほめていただくことには関心がないのですから。

 

しかし、このことであなたがたを父に訴えるのは私ではありません。
それはモーセです。

 

あなたがたはモーセの律法にひたすら天国への望みをかけていますが、律法を与えた当のモーセがあなたがたを訴えるのです。
それもみな、あなたがたが本当はモーセを信じていないからです。
なぜなら、モーセは私のことを書いたのです。
そのモーセを信じないなら、私をも信じないのです。
モーセの書を信じないくらいだから、私のことばを信じないのも不思議はありません。

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ご挨拶

ここまでごらんいただきましてまことにありがとうございます。
こちらの記事が、あなた様にとっての『良い知らせ』の一助となりましたら幸いに存じます。

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